この国が戦後復興を遂げたと言われてもいるが、あくまでも表面上の綺麗事・戯言に部類する。幼少期から教育、スポーツ、その他の活動に精を出したとしても、一般の方には悲惨なシナリオが待ち受けていたのである。この社会とは百数十年に渡り侵入し、牛耳り続けてきた偽アジア人達による権力の圧力釜の中だったのである。
兵器による圧倒の後に続いたのは、更なる恒久的な洗脳プログラム。他国に比較して長時間労働であり、昨今の非正規雇用の促進は「喜んで受け入れろ!」と嗾けられたオーダーでさえあった。残業した後に歌うカラオケ、ビジネス社会の癒しと思われていた一般の大衆娯楽とは一体誰のためか。何から何まで作り込み、回り込んでは全てを奪う。我々には何も残らない。
この暫定上の「上司達」を同族と思い込んできた我々は、疑うことなく従い、しかし最後にはボケることになる。二面性の権力なせる残酷な荒事である。こういった負のアジェンダは先端技術と同時進行でもある。
まさに「生殺与奪」としか言いようがない。戦後の疲弊した「多くの男達が去った世界」はテコ入れしやすかっただろう。カルトの集金と税金の用途は同じ道を辿る。運用であり、自身たちに近しい種族を招き入れる為の資金でさえあった。暴かれてきた金融界との癒着は否定できない。
所詮、法律・システムというのは、立案する者たちに有利なビデオゲームのコンフィグであり、最初からのチートプログラムである。「社会の厳しさ」とは、この誰も望んでいない「一部の甘ったるさ」の裏返しなのだ。
例えば、フード業界には、厨房をオープンな可視環境にして、クリーンな営業を見込むという手段もある。こういった、「喜んで膿を産出する者」たちに「膿を出し切る」ことができる筈もなく、「寝癖のついた服を着ている者」に「襟を正す」ことはできない。
年中行事として、「慰安婦・徴用工問題」という、身内のための「海を跨いだいつものキャッチボール」が朗らかに開催される。敢えて治癒される事の無いこの慢性的な仮病は、永遠にやってこない神話上の終末論と等価である。ややこしい立ち位置を日本に築いてしまった権力者達は、無国籍性・多重国籍性を有する事から、起源とする国からも疎まれる。キリスト教本来の「パンと葡萄酒」を「トンパンとトンスル」にすり替え、これから輸入を始めてしまうというのか。