私は時に思う。この日本ではひょっとすれば皆が夢を見ており、あろうことか170年もの間世代を超え、その夢を見続けているのではないだろうか。
中国の思想家に「荘子」という偉大な方がいたが、その代表的な逸話に「胡蝶の夢」というものがある。知識のある方なら覚えがあるだろう。
しかし、現在敢えてこう詠ってみてはどうだろうか?
ある羽虫が夢を見て別種の羽虫となり、その羽虫として大いに楽しんだ所、夢でありその夢が覚める。
果たしてある羽虫とは元来、蛾であったのか蝶であったのか。
蛾が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て蛾になっているのか。
170年続く夢
猛烈なスピードでAIの開発が進み、夢の世界がきたのか、カタストロフィが起きているのか。その効果はドミノ倒しのようにもたらすものも多いだろう。簡単な操作で高精細なVRも構築できるようになり、五感を通して、現実世界と仮想世界との区別もつきにくくなってゆくのではないだろうか。
しかし、土台であるはずの経済とは作りこまれたものであり、歴史・過去を網羅できるようになったインターネットの時代に、出来ることならそれらを修正したくなるような気分に駆られるのである。
蛾には蛾の常識があり、蝶には蝶の常識があるだろう。見分けること、判別すること。もし我々が悪い夢を長年見ているというのならば、その興から覚めることで、再度未来を見据えた生き方ができるのだろうか。